2017/07/16

もう生まれたくない

もう生まれたくない
もう生まれたくない
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長嶋 有
講談社
売り上げランキング: 13,355
■長嶋有
休日の朝から読みはじめて家事・食事・午睡をしつつ夜のはじめ頃読了。

読みはじめから複数の登場人物・場面・それぞれのモノローグが交錯し、いずれも「ややこしさへの前兆」「いま現在ややこしい」を含んでいて、なんだか気分が重たくなる雰囲気、いつまで経っても物語に「すーっと溶け込む」感が湧かない、読みにくい話だなあ、なんだろうこの感じは……と思いつつも読み続けさせるナニカがあってそれが「長嶋有」の力なんだろうとか考えつつ。

彼ら彼女らは平凡な日々を送っているのだけれど、どこか屈折していたり小さな問題を抱えていたり。
有名人の「死」、それをネットやテレビで知って、情報が拡散していく、それぞれの受け止め方、思考の広がり方の差異。
「死」は現実世界でかつて本当に起こった有名人の死、だから読みながらその記憶を頭のなかから引っ張り出してくる、その頃のマスコミの報道なども引き連れて。
「いま」を書く長嶋有だけれども、これらの「死」は「少し前」のことで、「あれ? なんかちょっと古い所から出して来たな」何故だろう、とも考えつつ読んでいく。

現実に起こったノンフィクションの「死」と、小説世界のフィクションの「死」が全部同じラインで書かれている。「生きて」いる人々も離婚したり、別れたりくっついたり、自分でも説明のつかない盗癖があったり、教え子に次々に手を出す教師がいたり、ややこしい。読んでいる間、眉間に皺が寄りっぱなしだ。正直読んでいて幸福感は生まれない。
身も蓋も無いが「面倒くさい」というのがしっくりくる。面倒な状況、が多い。生きていくのは得てしてそんなもんだということか。

しかし終盤である人物が事故って危うく死にかける。
ものすごく、怖い。
他人事の「死」がたくさん積み重なっていったところで起こる「死ぬかもしれない恐怖」、それを越えて登場人物の「幼い我が子を死なせてしまうかもしれない恐怖」がなだれ込んできて、本当に怖い。
その後の、この人物の生き方に与える影響は、ものすごく説得力があった。
「生きている」ややこしさもあるけれど、「死」で喪うものへの恐怖はやっぱり、どうしたって「取り返しがつかない」怖さ。

この話には「フキンシンちゃん」こと蕗山フキ子嬢が女子大生で登場するが、彼女がごく普通に平凡な日常生活のバイト学生として描かれていてふーんと思って読んでいたら最後のほうでいきなりそこだけ別世界のエンタメ小説みたいな説明文が出てきて、つまりこれは、なんでしょう。「ノンフィクションの中にフキ子ちゃん」のような気持ちで読んでしまう、でもこの小説全体はいうまでもなく「フィクション」で、だけどあちこちに挿入される「有名人の死」は「ノンフィクション」なのである。
フィクションとノンフィクションの境目が揺らぐ、「死」はそう誰にでも起こるとみんな知っているけれどいつ起こるかはわからない、というようなことが本文のどこだかに書いてあったけれども、「死」と「生」の境目がどこにあるかはわからない。
その死が「予期できない」ものであればあるほど、周囲に与える衝撃・影響は大きくなる。

登場人物のそれぞれ結構変な癖みたいな個性があって、群像劇みたいな書かれ方で、特に誰にも同化・深く共感することは無くて、どちらかというと逆の感じで、だからこそ話の展開をわりと冷静に追えたように思う。「全体まとめて、何が描かれるのか」思えば『三の隣は五号室』もそういうタイプの小説だった。そういう方向でいくのかなあ。

読みはじめる前、「なんだか暗そうなタイトルだな」と思ったけれど、内容を読み終わって本を閉じて、あらためてそのタイトルを見るとなんだかもう本当に震撼としたというか、「おおう、……そう来る?」と思ってしまった。

こういうテーマの小説は、やっぱり重たい。