2017/06/29

雲をつかむ話

雲をつかむ話
雲をつかむ話
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講談社 (2012-12-17)
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kindle版
■多和田葉子
2012年講談社単行本刊の電子書籍版。
長篇小説。随筆風でもあり、著者自身のリアル体験がどこまで混じっているのかなあなどと考えつつ読んだ。
「雲をつかむ」というタイトルのとおり、話があっちへこっちへ空想・連想・見た夢と飛んで数日に分けて読んでいると主筋を忘れそうになる、いまは現在か回想なのか、夢なのか現実なのか曖昧になって数ページ戻ってから読み返すこともしばしば。まさに雲をつかむような話だった。そのわりに最後は「おー、こう終わるか!」と衝撃を与えてくる。
こういう話は休日に一気に読むほうが向いているかもなあ。

とりあえず一読後、もう一回最初に戻って斜めに全篇目を通し直した。
感想は「犯人が多すぎる」。
いや別にこれミステリーでもなんでもないのだが、主人公「わたし」がいままでに出会ったいろんな「犯人」とのことを書いた小説なので。

「犯人」といっても犯罪の種類は色々である。
郵便物を盗んだ少年、バスの中で他人を傷つける暴言を吐き続ける少年、複数人と浮気した夫を殺した牧師の妻、思想的な問題で国家から危険思想認定された中国の詩人、無賃乗車・罰金を頑として払わない青年、娘を侮辱した夫を殺した妻、相手の大事にしているものだけを無断借用・盗み続け、将来の夢・子どもの名前なども真似して最終的に相手を刺した女――。

最後の女に関しては、最初に刺された方の言い分が書いてあってぞっとさせられ、その後で共通の知人の話があり、最後に刺した側の言い分が書いてあるのだが言っている内容が双方で平仄が合わないので「果たして嘘をついているのはどちらなのか」わからないままでなんだか読み終わった後でも後味が悪い。

窃盗罪はともかく殺人、それも複数人を殺すとなるととても正常な精神では出来ないと思ってしまうので、その罪を犯した犯人を「他と変わりない」と捉えることはわたしには出来ない。そういう意味では主人公が理解出来なかったが、「犯人」のことを書いてある小説というふうにはあまり読めず、いろんな人間のあり方、周囲のことなどが書かれている小説で、それがほとんど当事者ではなくて傍観者的な立ち位置なのでクールに書いてあるので一歩引いた形でこちらも読んでいける。不気味で意味不明などろどろしたしつこい悪意によるささいな犯罪が殺人よりもずっとタチが悪いというか、そういう性質の人間に遭ってしまったら不愉快極まりないなあ、などと思うケースもある。宮部みゆきのある小説を思い出したり。

メインとなっているのは1987年に「わたし」の家をほんのいっとき訪れてそのままいなくなってしまったある青年のこと。
チャイムを鳴らされてすぐドアを開けたり、知らない男を家に入れたり、あまつさえ彼を残して2階に上がって探し物をしたりと現代の感覚では「あり得ない」ことの連続で読みながら「昔はドイツでもこんな感じでOKだったの? このひとが悪いひとだったらどうするの」と考えていたので彼の正体がわかったときにはゾッとしたが、どうもこの話の「わたし」は全然恐怖感はわいてこないらしい。理由もなしにひとを殺す、という犯罪が当時は無かったのだろうか。

赤茶色の細い巻き毛の、「わたし」より首ひとつ分は背の高いがっしりした男、33歳、名前はフライムート。「わたし」の家を出た後、結果的には警察に出頭し、複数の人間を殺した罪で終身刑を受けることになった(本書によるとドイツの終身刑は十数年で刑務所から放免されると書いてある。また、終身刑そのものも廃止された、と)。

この青年はその後はもう出て来ない。ただ、「わたし」の気持ちはずっと残っていて、彼の事が契機となって「犯罪」と「長い時間収監されること」「犯罪をする人間」について思索し、他の類似例などを「雲蔓式」(芋蔓式とこの話の「雲」を引っかけた駄洒落)に書いてある。

で、この小説は別に犯罪や「罪とはそもそもなんぞや」というテーマではなく、そもそも「罪」については最初から「脇に置いておいて」というスタンスである。
犯罪を犯した人間について突き放すようなことを言われたときに「わたし」はかっと腹を立てる。
その後のやりとりから出てくる畳み掛けるような女医の言葉に「わたし」は今までのこわばりをどんどん解かれていく。
そして「ドアを簡単に開けたわたし」に眉をひそめていたわたしにとっては女医の言葉はものすごく当然のことと感じられ、「わたし」に必要な忠告はまさにこれだったのだ、という思いがした。

彼女はドイツに住んでいるから、フクシマの事故の後日本から来たとわかると放射線検査をされるシーンが出てきて、これは先日読んだ彼女の本にも同じようなことが書かれていた。かなりナイーブになっているように思う。正確にはメルトダウンしていたと発表されてから、ということになるのかなあ。
日本の中にいて考える「日本の像」と、ドイツに住んでいて感じる周囲の国の「日本観」は違うんだなあということを多和田葉子の小説を読んでいると肌で感じるのだった。