2017/06/26

尼僧とキューピッドの弓

尼僧とキューピッドの弓 (講談社文庫)
多和田 葉子
講談社 (2013-07-12)
売り上げランキング: 401,422
kindle版
■多和田葉子
本作品は「講談社創業百周年記念書き下ろし作品」として2010年7月単行本刊、2013年7月文庫化されたものの電子書籍版。
長篇小説、kindle版で2565頁なのでそんなに長くない。
「第一部 遠方からの客」 が全体の7割を占め、「第二部 翼のない矢」が残り3割という二部構成。

第一部も第二部も「わたし」による一人称で語られるが、第一部の「わたし」は日本人であり、職業が小説家で女性であることなどから何となく著者の分身のようなイメージ、でもまあ「=著者」というわけでもないんだろうな、というような。
この「わたし」は観察者というか、取材的な目的でドイツの修道院に一定期間滞在しているだけの身なので、傍観者的な、非常にフラットな視点で修道院のメンバーを観ているから、読んでいるときは彼女の「眼」がカメラの目のような役割をしていて、その視点に同化しやすい。非常に読みやすかった。

「わたし」は個々の特徴をほぼ第一印象で判定し、それぞれに熟語(創作)の徒名を命名したりしていて(内心で考えているだけで口に出すわけでは無い)、ユーモラスである。徒名の付け方、その漢字のチョイスが日本人ぽくないというか、まるで日本語の達者な外国人が漢字の意味だけに重点を置いて選んでいるような雰囲気もある。ちょっと拾ってみよう。
尼僧は全部で9人登場する。
透明美」さん(尼僧院長代理)。「貴岸」さん。「老桃」さん(老尼僧院長。95歳以上。)。「陰休」さん(病気治療中)。「火瀬」さん(老尼僧院長)。「河高」さん(見習い期間中)。「流壺」さん(85歳)。「鹿森」さん。「若理」さん(元弁護士)。

第一部は「事件」へのほのめかしがあって、事件と云えば殺人、とついつい連想してしまうのだが、もちろんそういう話では無い。「事件」というのはネタバレでも何でもないので書いてしまうが、この修道院の「尼僧院長」が就任後1年くらいで突然辞めて、修道院を出て行ってしまったことを指している。その原因やいきさつなどは中身を読んでいくとわかる。
舞台となっている修道院(クロースター)は千年以上も前に創立された。「ニーダーザクセン州」のW市(不思議な鳥たちを世界中から集めた鳥公園がある)にある教会に身を寄せている。

この話では先に触れたように9人の尼僧が出てくるのだが、そのどれもが個性的で、くるくる立ち代って登場して「わたし」に話しかけてきたり部屋に誘ったりしてきて、皆「わたし」には比較的好意的なのだが、修道院内部の人間関係、それぞれの思惑などがだんだんわかってきたりして、それが面白くて「えーと、このひとは誰だっけ」などと前に戻って読んだりを繰り返しているとその場にいない「辞めちゃった尼僧院長」のことなんか正直忘れていくというか、辞めた理由もそんなに突飛でもない(恋愛絡み)ので、だんだんどうでもよくなっていく感じではあった。

「尼僧」「修道院のシスター」というと、それはいろいろ難しい人もいるんだろうけれども基本的には敬虔で、落ち着いていて、穏やかで、優しくて、神様に人生を捧げている非常に宗教心に厚い方たち、というイメージだったが、本書を読んだ限りでは、もうちょっと世俗的というか、ある意味「どこにでもいそうなごく普通の女性たち」だった。
それはこの話が始まったときの「わたし」もそうだったらしく、最初の方にこんな記述がある。
わたしはその窓の向こうに監獄の独房のような僧房があるところを想像してみた。薄闇の中に黒衣に身をくるんだ、青ざめた尼僧が跪いて祈っているところを思い描いてみた。この時はまだ自分の空想がどれほど的外れなものであるか分かっていなかった。

ほほう、つまり尼僧さんの実態はそうじゃなかった、っていうことがこれから描いてあるわけね、と頷きながら読み進むわけである。そして実際読んでいくと「男性なんか当然入れないんだろう」と思っていたらお客は自由に出入り出来、あまつさえ泊まりさえしなければ恋人がいたって良いとか書いてあるので「へええ」と驚く。既婚者は駄目なのだが、離婚していても全然問題ない。「修道士」「修道女」といえば「生涯独身」「神が配偶者」というイメージだったのでびっくりした。
実際、この修道院にいる女性たちの多くは昔結婚していて、子どもが独立した後にここへ入ったというひとが多い。離婚した旦那がこの修道院に訪問するのも普通。
ふだんは尼僧の黒い衣は着ていなくて、私服。日曜日の礼拝のときは正装する。
自ら車や自転車で出掛けるのもOK。ただ、いろいろ仕事の分担が有るので、それを放り投げて長期休暇、とかは出来ない、つまりまあ、「職業」なんですな。人々にキリスト教を広めるのが仕事なのかと思ったら布教はしないんだそうだ。修道院を維持し、見学者を案内するのが義務なんだそうだ。
修道院に入るときに財産の没収などはいっさい無い。何故ならそんなことをしてしまったらその個人が「やっぱり辞めたい」と思ったときに辞めにくくなってしまう、個人の自由を奪ってしまうからだそうだ。ほー。修道院によって違いはあるのだろうけれど、この自由さは良いなあと素直に感心した。

第二部の「わたし」は「辞めちゃった尼僧院長」で、第一部の「わたし」が日本語で書いた小説が英訳されたのを書店で見つけて読んでしまい、「これはわたしじゃない」と憤慨して自分の経緯を語る内容。

第一部がきれいに終わっていたので、「第二部」という中表紙が現れて「えっ、まだ続きがあるの」と意外に思いながら読みはじめたらどうやら今までの世界と違う、「よく知っているのによそよそしく遠い人、それは紛れもなく、過去のわたし自身だった」の「わたし」とはいったいあのうちの誰だろうかと思いつつ彼女の憤る独白を読んでいくと段々わかってくる。舞台はカリフォルニアだ。「離婚の疲れを癒す旅だから」とかさらりと書いてある。

正直第一部を読んでいく中で「どうでもいい」という気持ちになっていたので微妙な気分だったので、無くても問題なかったとは思うが、「書かれた」ということはやはり意味があるのだろう。
その「意味」とは一番は「大筋では同じだが、当事者はやはり違う点が非常に気になる」「当事者の語る内容は、脇で見ているだけではわからない、伝わりにくい微妙な原因の積み重なりが引き起こした結果である」というようなところか。
この話に出てくる男性のいずれもが「どこが魅力的なのかよくわからない、とりあえず凄く鬱陶しくて、邪魔な存在」にわたしには思えた。そういう描き方をしてある。

修道院という場所になんとなく淡い憧れみたいなのがあり(宗教的な意味ではなく)、どういう生活なのかなど少し興味があったので、それが著者の取材をもとにリアルな感じで描かれている本書はかなり面白かった。第二部をひっくるめて「恋愛小説」として読むことも出来るだろう。「プロテスタント」というとかなり厳格なイメージがあったのだがそれを飄々と乗り越えていく、生活力の強さ、実務的な「生きていく」60歳を越えた女性たちの肩肘張らない日々、それぞれの個性・(あくまでも小さな)軋轢、みたいなものが面白くて、いままで読んだ多和田葉子作品の中で一番読みやすかったように思う。