2017/06/23

旅をする裸の眼

旅をする裸の眼 (講談社文庫)
多和田 葉子
講談社
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kindle版
■多和田葉子
本書は単行本2004年12月刊、文庫版2008年1月刊の電子書籍版。
長篇小説。
といってもkindleで総ページ2787頁だからそんなに長くない。

最初の2行くらいがいきなり一瞬意味が分からなくて、あ、映画観てるのかと理解して、大丈夫だろうかと思って読みはじめたら後はかなり読みやすくて物語の中に比較的スムーズに入っていけた。途中で飽きることもなくて、時々理解が難しいところもあったけれど、最後まで読んで、「これで終わり!?」とちょっとびっくりして確認するように見直してしまった。

最近の翻訳小説は昔のいわゆる「翻訳調」が少なくて、あと村上春樹なんかで日本文学の文体にも変化があったことも影響しているのかもしれないけれど、とりあえず違和感が無い。
それもあってか、本書を読んでいるときに「最近の翻訳調ではない翻訳小説」を読んでいる錯覚に何度も陥った。
これは主人公がベトナム人で、舞台がずっと外国だからということが大きいのだろうが、多和田葉子がドイツに住んでいることやその作風も結構影響しているのかも知れない。

わたしは映画を全然知らないので、本書の章ごとに出てくる映画や主人公が「あなた」と呼びかける女優が実在の人物であるということに気付いたのは本書も随分後のほうになってからだった。
第六章で「シェルブールの雨傘」というワードが出てきて、さすがに超々有名作品だから題名くらいは知っている(観たことは無い)。ここまで「(著者は)小説の筋だけでなく映画の筋まで考えないといけないとはなかなか大変な作品だな」「でもひょっとしてこんだけ出てくるってことは実際にあるのかなモデルとか」と間抜けにも考えていたのがこれで氷解。
章タイトルごとに年号があって横文字が(英語のときもフランス語?のときもあってその後にまた年号がある、これは何かなあ、年号どうしの関係は?)とか考えつつとりあえずその問題は横にやって読んでいたのも「実在の映画である」とわかって解決。映画のタイトルと、発表年度だ!(ああ間抜けすぎる…)。
映画音痴なので映画タイトルを示されても女優さんのフルネームが本書には出て来ないので、読後、ネットで検索して初めて「カトリーヌ・ドヌーブ」という名前がわかった。名前・写真を見ても知らないひとだった(すみません、わたしが俳優女優を知らなさ過ぎるんです)。

なんでこんなふうにわざわざ己の無知を晒すのかというと別に無恥なわけではなくて、「このように、わたしのごとく映画の事を知らない人間にもこの小説は面白く読むことが出来た」と伝えたいからである。フランス語を解さない主人公がフランス語の映画を愛してやまなかったように、「作品」には個々のそのときなりの愉しみ方がある。

主人公はベトナム・サイゴンに住む高校生の少女。
彼女はロシア語の弁論大会で発表するために東ベルリンに派遣される。そこで知り合った青年にお酒をすすめられ、気が付くと西ドイツのボーフムのアパートに連れ去られていた。相手の隙を見てサイゴンに戻ろうとしてソ連行きの列車に乗り込んだまではよかったが、ソ連行と思ったその列車はパリ行きだった…。

主人公はこの物語の中で2回ほど名乗るが両方偽名で、本名は最後まで出て来ない。まずこれが変わっているし、ひとつのポイントのような気もする。

彼女の頭の中はバリバリの社会主義・共産主義で。
時代は物語が始まったころは1988年で、まだ東ドイツがあった。ベルリンの壁が崩壊していなかった。

言葉もわからない、お金も無い少女がパリに行ってどうなるんだろうと危ぶんでいたのだが、結論から言うと、この少女はいろいろ運が良い(?)というのか、なんのかんので助けてくれるひとに会ってとりあえず食べ物や眠る場所には不自由しないで生き繋いでいく。安定したかと思うとまたもや…という繰り返しもある。

列車の中で偶然出会った同郷人にお金を貸してもらい、パリの街をさまようが言葉がわからないのにどうするんだろうと思っていたら辻に立つ娼婦を「宿所に案内してくれるひと」と誤解したりして、その娼婦(マリー。マリーという名前は結構重要。というかカトリーヌ・ドヌーブが演じる名前だから主人公の頭の中で意識される。)の家にしばらく住ませてもらったり。後半では同郷人の医師と出会って彼の家に住むことになってなんとプロポーズされるんだけど(一緒に映画を観に行く仲になったシャルルは良いのか!?シャルルの事が好きだったんじゃないのか!?)、要するに不法入国だからパスポートはあってもビザが無い。ここでこの話に初めて日本人が(伝聞で)出てくるがなんと闇パスポートを手配するとかいう怪しい人物。……。

主人公が映画に出てくる女優に頭の中の空想で「あなた」と呼びかけ、その女優の出てくる映画を見つけては見、ときには何十回と繰り返して見に映画館に通う。
何故主人公が最初から彼女を「あなた」と特別視するのかは特に書かれていないので想像するしかないのだが、まあ、惹かれた、ってことなんでしょうか。
映画を観ると言ってもパリで見るのだからフランス語の映画で、彼女はフランス語を理解しないのである。だから全部映像だけで推測している。

この話で描かれる映画は実際の映画だけれども、彼女の想像した映画の筋なので、実際の映画とは違っているのかも知れない(元の映画を知っているひととわたしでは本書の読み方が全然違ったものになるということでもある)。
まあだからと云ってこの本に出てくる映画全部観るとなると大変だしなあ。文庫には「解説」が付いているらしいからそれを読めば何らかの助けにはなったのかもだけど電子版では割愛されてるからなあ。

しかし主人公の映画、というかカトリーヌ・ドヌーブが演じる役柄たちに対する思いの揺るがなさ、その真摯さには目を見張り、こちらの心を動かす純粋でとても強い「何か」がある。「何か」とはやはり映画の心みたいなものか。ひとがひとに伝えようとする何か大切なもの。
おそらくこの小説の「肝」はそこにあると思う。

主人公はベトナムでは成績優秀だったと(自己申告だが)書いてあってだから東ドイツに行く生徒として選ばれた。だけど外国で一人で知り合ったばかりの青年の前でウォッカをがばがば飲んだり、妊娠しているのに生理がくることに疑問を感じなかったり、子どもが何カ月で生まれるかを知らなかったり、いろいろ知らないことが多すぎてとても賢い女の子とは思えない。これは社会主義・共産圏の女子生徒は性の教育を受けていないということなのだろうか。ある種のプロパガンダに染まった十代少女の危うさや頑なさは本書のあちこちで表現されている。彼女自身はその「違和感」に気付かない。

目次
第一章 1998 Repulsion 1965
第二章 1989 Zig Zig 1974
第三章 1990 Tristana 1970
第四章 1991 The Hunger 1983
第五章 1992 ndochine 1992
第六章 1993 Drôle d'endroit pour une rencontre 1988
第七章 1994 Belle de jour 1966
第八章 1995 Si c'était à refaire 1976
第九章 1996 Les Voleurs 1996
第十章 1997 Le dernier métro 1980
第十一章 1998 Place Vendôme 1998
第十二章 1999 Est-Ouest 1999
第十三章 2000 Dancer In The Dark 2000