2017/05/27

道草 【再々読】

道草 (新潮文庫)
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夏目 漱石
新潮社
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道草
道草
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(2012-09-27)
kindle版
■夏目漱石
発表順は『こころ』の後。
この小説は漱石の自伝的要素が強い小説とされている。
描かれているのは若い時で、本文でそれが示されるのは冒頭の【健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。】【彼と細君と結婚したのは今から七、八年前】などである。
漱石が鏡子と結婚したのは明治29年。そこから8年として、明治37年(つまり漱石37歳)頃の話として読める。
ちなみに鏡子は漱石の10歳下。
【遠い所】は英国留学を指しているのだろう。
『吾輩は猫である』を執筆する少し前くらいから、終盤ではなにか原稿らしきものを書いたのかな? という部分もあるけどこれが『猫』なのかなあ。

漱石が子どもの頃養子にやられてそこの家がゴタゴタして9歳のとき生家に戻されたけど実家と養家でお金の問題などでモメて復籍できたのは21歳とか、その後も養父からお金の無心が続いたとかいうのは有名な話だが、これを略歴などで読んで知識として知っているのと、長い小説としてそのときの様子とか相手の表情とかこちらの感情とかいろんなものを織り交ぜて読むのとでは全然しんどさが違う。
小説では主人公の側に立ってその心情に同化したり想像したりしながら読むから、本当に養父が鬱陶しいし重たい。
しかも家のなかもどうにも辛気臭いというか、全然心休まらない……なんで奥さんとそんなに仲悪いの、っていうかお互い思いやりなさすぎ意地の張り過ぎ、「あっちが冷たいからこっちだって」をお互いずーーーっとやってる。なんのかんので3人目がお腹の中にいたりして没交渉ってわけじゃないみたいなんだけど、逆にそんだけ仲悪い癖にそっちだけある、っていうのも奥さん側の心中を慮るとどうなんだろうなあ、現代の感覚とは違うのかなあ、とか。
どうも奥さんの生家側といろいろあって、仲がこじれてしまっている。奥さんはそれをずっと根に持っている。夫より自分の父親の側に立った思考をしている。

実際には他の小説や随筆などから漱石が我が子たちに優しい目を向けてたりするんだけど、この小説においては我が子についての描写もかなり異常なまでに醜くわずらわしいもののように描かれていて、なんなんだろうなあ。
主人公健三が笑ったり楽しんだりくつろいだりしている場面が出てこない。

小説では健三がどこに勤めているかの明記はないのだけれど日々「講義」をしに出掛けていくので、大学の先生をしているのだなとわかる程度。大学の先生なら裕福なんじゃないのと思うし、文中に出てくる親戚とか周囲とかもそう思っていて、だから養父も養母も妻の父(義父)とかもお金をどうにか得ようとたかってくるわけだが、内情は苦しいらしくて、奥さんは自分が嫁入りに持ってきた着物や帯を質にいれてやりくりしたりしている。

お金をせびられるのは不愉快だし、養父も養母も大嫌いだけど、幼い頃に自分が彼らに甘やかされ育ててもらったことは事実であり、いまも場面場面を覚えている。兄や兄嫁、姉もその夫も、自分の妻も、そしてもう無くなった父親も、みんな養父母とは縁切りしたのであり証拠の文書も保管してある、だからうっちゃっておけばいいという。だけど彼らにはなくて、主人公にだけあるのが「養父母を実の父母と信じて生活していた数年間の記憶」なのである。

実の親であれ、育ての親であれ、それが好きであれ嫌いであれ、そういう「事実」というのは大人になっても、ずっとずっと後になっても、切りたいから簡単に切れるというものではなくて、それはこちら側だけの意志だけでも難しいし、まして相手がそれをタテにずっと縋ってくるならなおさらややこしい、というのは容易に想像できる。ひとの情のなかでもとりわけ微妙な「家族の情」につけこんで金銭問題をどうにかしようとする者ばかり出てくるから本当に鬱々となる。

読んでいて愉快な小説でないことは確かだが、そして面白いかどうかはどういう面を評価して読むかなどによっても異なってくると思うが、いろんな人間が出てくることは確かである。夫(漱石)の側に立って読むか、妻(鏡子)の側に立って読むかでも随分違うと思う。