2016/06/11

夜を乗り越える

夜を乗り越える(小学館よしもと新書)
又吉 直樹
小学館
売り上げランキング: 39
■又吉直樹
通勤の往路のみに途中に本屋を視界に入れながら通る場所があり、そこにしばらく前から又吉さんの写真と大きく「でたで。」というコピーが入っているポスターが貼られているのに気づいていたが、「でたで。」という言葉から新刊の宣伝というふうには発想が及ばなくて、そこは文具も扱っている本屋だからなにか新製品か、新しい雑誌が出たとかそういうのにネームバリューのある又吉さんの写真が使われているだけだろうと思っていた(通り過ぎる一瞬だけの考えなのであまり深く考えていなかった)。
昨日、復路のルートで少しだけ寄り道する形にして別の作家の新刊を探しにいったらその小さな書店には影も形も無くて、がっかりしつつ入り口近くの新刊話題書コーナーを確認したら本書が並べられていた。おお、「でたで。」というのはこの本の事を指していたのか(と同時に「小学館よしもと新書・創刊」のキャンペーンでもあったのか)とようやく意識が追いついた。我ながら迂闊過ぎるが、しかしこういう広告の仕方ってあんまり書籍では無い形だと思う、やっぱり又吉直樹ならではのことだと思う。従来からある「小学館新書」からではなくて「小学館よしもと新書」を創らないといけないんだ。読み終わって奥付の(c)のところにNaokiMatayoshi,Yoshimoto Kogyo 2016とあるのを見てちょっとなんとも云えない気持ちに。

帯には「なぜ本を読むのか?」「芥川賞受賞作『火花』はどう書かれたか」などのアオリ文句が並んでいる。裏表紙側の帯には「本は賢い人達のためにだけあるものではありません」とあるけどそういうふうに思っているひとが多いってこと??? 本を書く作家さんたちは賢い人達だと思うけど、読む側は関係ないよね…もはや意味がわからん。
「はしがき」には「本を読む理由がわからない方、興味はあるけど読む気がしないという方々の背中を頼まれてもいないのに全力で押したいと思います」と書いてある。まあ全体的にそういうスタンスの本である。ものっすごく丁寧に、真面目に、こつこつと、又吉さんがどういう理由で読書の魅力に気付いたかとか、日々どういうことを考えて読んでいるかとか、具体的に例を挙げてできるだけ齟齬のないように、誤解を生まないように、気をいっぱいつかって書いてある。そしてそういう「いまさら」な内容なのにもかかわらず、すいすい読めて面白い、読みはじめてすぐ再認識したけど又吉さんってやっぱめっちゃ文章巧いし気配りが最初から最後まで気を抜かずにされていて、お人柄が出ている。

しかしまあ水を差すようだけれども「はしがき」に出てくる「なぜ本を読まなくてはいけないのか?」という疑問を持っているような方が本書を最初から最後まで真面目に読まれることがあるのだろうか? とちょっと思わないでもない。全然難しいことは書いていないけれど、「なぜ本を読むの?」くらいのひとは読むかもしれないけど「読まなくてはいけないの?」という考え方をしているひとは根本から違うので、もしわたしがそう聞かれたら「いや、別に読みたくなければ読まなくてもいいんじゃない?」と笑って答えてから話題を変えますけどね。別に相手を説き伏せる必要も感じないし。
もしそういうひとにこちらの真面目な意見をきちんと伝えようと思ったら、又吉さんが本書を書かれたように、かなり長い説明をしないと結局は理解してもらえない。つまり、本書は「他人に自分の思いを伝えたかったらどれくらい言葉をつくさないといけないか」ということをサイズとしてリアルに見せてくれているとも云える。
常々思うんだけど、なんで本とか読書だけ「読んだ方がいいのか」「読まないとだめ」「読んでるとなんか賢そう」「教養?」とか別枠で扱われるんでしょうね。いや、実用書とか難しい専門書ばっかり読んでいるひとは「教養?」って言われてもわかるんだけど。こっちが完全に趣味、娯楽で読んでいてもそういうふうに言うひとは言う。そしてだいたいの場合、マイナス方面の底意を含んでいる。

本書では、又吉さんが小説・文学を中心に「本」の面白さ、自分の人生においてどういう役割を担ってきたかを書いてあるのだけれど、特に「火花」については反響が大きかったこともあり、小説を読んで中身について批判する以前に、読みもしないで批判されたときのことなど、時には怒りの感情をあらわしておられることもあり、そうか……と同情した。どうも、素人の感想とかじゃなくて、批評家とかそれをプロとしてやっている人間のなかにもかなり頓珍漢な批評をするのがいたらしい。大抵のことには相手に対する尊敬の姿勢を崩さない又吉さんが腹立ちを隠さず批判しておられるので、よっぽどだったんだな、と思った。

この本に書いてあることはあくまで又吉さん個人の見解であり、読書する人間が全部こうだというわけではないが、読書を趣味とする人間にはだいたい思い当たるふしがあるだろうし共感するところも多いのではないかと思う。本を読んで「難しい」と投げ出してそのまま読書嫌いになってしまうパターンが少なからずあると思うのだが、又吉さんのおっしゃるとおり、それは読み手側のほうにも準備がいるからであって、他の作品をいくつか読んで、本を読むことに慣れて何年か経って、また読んでみたら「すーっ」と理解できるようになっていて驚いた、という経験は誰しも経ていると思う。また、同じ作品を再読、再々読するたびに心に響く部分が変わっていくということも。本は、結局は自分との対話、ということなのかもしれない。でも同時に、自分だけでは想像できないこと、自分の思考とは違う思考を読むことで、他者の立場に立つということを考えさせてくれる。

6章構成。
章の中の節タイトルは全部写すと大変なのでそれぞれ最初の3つのみで残りは省略しています。
第1章 文学との出会い
(父の言葉が人生を決めた/本当はこんな人間ではない/求められる暴力/ ほか)
第2章 創作について――『火花』まで
(二十五歳で死ぬと思っていた/本を読む。ネタを書く。散歩する。/十八歳で初めて書いた小説/ ほか)
第3章 なぜ本を読むのか――本の魅力
(感覚の確認と発見/小説の役割のひとつ/本はまた戻ればいい/ ほか)
第4章 僕と太宰治
(なぜ太宰治か/嘘だけど真実/真剣で滑稽/ ほか)
第5章 なぜ近代文学を読むのか――答えは自分の中にしかない
(芥川龍之介――初めて全作品を読んだ作家/『戯作三昧』――自分を外に連れ出す瞬間/『或阿呆の一生』――完全な一瞬は一度だけではない/ ほか)
第6章 なぜ現代文学を読むのか――夜を乗り越える
(遠藤周作『沈黙』――疑問に正面から答えてくれた/吉井由吉『杳子』――思考を体現する言葉の連鎖/『山躁賦』――創作は声を拾うこと ほか)