2015/11/03

オリガ・モリソヴナの反語法

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)
集英社 (2015-01-09)
売り上げランキング: 4,406
kindle版
■米原万里
本書は2002年10月に単行本が上梓され、2005年10月文庫化したものの電子書籍版である。
米原万里といえばルポ・エッセイだと思っていたがこれは著者が初めて書いた長篇小説。米原さんご自身の経験が面白いのだから「創作」には興味がなかったのだがたまたまアマゾンのレビューをちらっと見たら絶賛の嵐で、試しに冒頭を読んでみたら彼女のエッセイやルポの空気感と温度差が全然無くて、まるで「作られた感」を感じさせない。あんまりにも自然に話の中に吸い込まれていくのでびっくりした。それでいて、少女時代から始まるこの物語は、小学生の頃に読んだ外国の良質な児童書が持っていた独特の雰囲気もどこかで漂わせていた。ソビエトで生きた人々の歴史と人生を描いた真面目な深刻な話かなあと予想していたらそれを謎解きの形でこちらの好奇心を刺激してどんどん話に引き込んでいく素晴らしいストーリー構成。

話の中にエッセイで出てきたエピソードが出てきたり、実際の歴史上の出来事を生きた人々が描かれていてかなり綿密に取材して書かれたものらしいことはびしびし伝わってきて、ノンフィクションのようであるが、これはフィクションである。「フィクションであると断っているからこそより実態に近いところまで肉薄して書けるという場合が少なからずある」という真実が世の中にはあるが、本書なんかはまったくその良い実例のひとつなんではないだろうか、と読みながら何度か考えた。

ロシアって怖い、ソビエト連邦って怖い、といままで読んだり観たりしたものから思っていたが、米原万里のエッセイではむしろ彼女が少女時代に出会った温かい人々との交流が主に描かれていて、ソビエトのふつうのひとって「素朴で親切でやさしいんだよー」というメッセージが、そして(ソビエトの怖いひとはホントに怖いんだよー)ということが書かれていたが、この小説を読んで「ソビエトの怖さってやっぱり半端なく怖い」と心底からゾゾーッっと思い知らされた。こういうのは中学とか高校でナチスのユダヤ人迫害とか、スターリンの粛清とか学校で習ったときにも感じて震え上がったものだが、あんまりにも状況が酷過ぎてこれが昔本当にあったことだと脳で理解していても我が身のこととしてリアルにそれを追体験することを心が受け付けない。少女時代の尊敬する先生の隠された「真実」を知りたいという主人公の気持ちと、その種のことを自らの経験として生きた証人がまさに目の前にいて、喋っている、生きている間に次の世代に伝えておきたい、そういう老いたひとが必死に伝えようとしている姿と。調べて解ける謎と、新たにわき起こる疑問と、ひとからひとに繋がって少しずつ明かされていく「事実」。

巻末にある池澤夏樹との対談の中で著者は以下の様に述べている。
本当は私、ノンフィクションを書きたかったんです。そのほうが迫力があるし、そもそもオリガ・モリソヴナは、実在した先生ですから。ソビエト当局が「彼女を解雇しろ」と校長に命令したのに対して、先生たちが、彼女がすばらしい教師で、彼女を失うことはいかに大きな損失かという、電文にしてはあまりにも長すぎる嘆願文を書いた。そこに私の知っている先生たちの署名があった。ロシア外務省の資料室で、それを読んだときには、もう涙がとまらなかったですね。これを追求していって、資料を当たって、本当にあったことを書けば、感動的なノンフィクションになると思ったんです。ところが、それ以降、まったく資料が出てこない。出てこない以上は、その周辺資料を読むしかない。それでああいう物語になりました。
この小説が凄いのは、心を打つのは、やっぱり「真実」が大きな大きなウェイトを占めていて、「真実」を伝えるためにどうしても「創作」という形をとらざるを得なかった、そういうことなんだなとこの対談を読んで思った。

凄い小説を読んだ後は本当に感想が書ける気がしない、しばらく茫然として「わたしの感じたこの感動を伝えるにはとにかく読んでくれとしか言えないなあ」と思うのだが、今回もそうだった。いちおう書いたけど。

あ、大事なことをひとつ。この小説を読んでの感想をひとことで言うなら「面白かった!」だというのが凄い、これだけ重たくて実際の人間のしんどくてつらい人生を追っていながら、小説として見事に面白い、暗く沈んでいない、それはいま生きている、主人公や取材された方々の目がキラキラと生きているからに他ならないと思う。澱みない、絶望しない、力強さ。「さすが、おふくろです。ハハハハ、ラーゲリ帰りは、しぶとい、しぶとい!」終盤のあるシーンで息子さんが笑って著者たちを励ます。こういう、かえって何気ないところで油断して、胸を衝かれた。

なんで、いままで読んでいなかったんだろう。巻末対談で池澤さんが【タイトルがわかりにくい。】と云っていらして、「まさに!」と苦笑してしまったひとは少なくないはずだ。こんな凄い小説だったとは…。