2007/12/02

犬身

犬身
犬身
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松浦 理英子
朝日新聞社 (2007/10/05)
売り上げランキング: 471

■松浦理恵子
ずっと気にはなりつつ読めていない作家というのが何人かいて、そのひとり、松浦理恵子さんは「あの笙野頼子が認めるお友達」ということで代表作『親指P』を書店で手に取るまでは至ったことがあった。が、帯に書かれたあまりにも前衛的過ぎる設定に当時の私は引いた、ひるんでしまった。へたれである。
あれから数年、寡作である彼女の新刊が書店の平積みに並んだとき、私は懲りずにスススと寄っていき、そして帯に書かれた文句にまたもすごすごと引き返すことになったのだった。
曰く、「あの人の犬になりたい。」

急いで結論から書いておきたいが、これは下僕願望の話ではない。
実際に本書を最後まで堪能した身にあってはこの帯のフレーズはちょっとモンダイがあるというか、語弊が生じるよなあと思う。


このお話はまず、主人公の女性が無類の犬好きである、という大前提があって、人間としての人生が悲劇とかではないけれどもう行き詰った感があるという状況があって、で、そもそも彼女は小さい頃から常々人間よりも犬にシンパシーを感じていて、人間に対する情熱よりも犬に対するそれのほうが勝る、自分の本来のあるべき姿は犬であるのに間違って人間の姿で生まれてしまったんだと考えるに至る経過があって、――まあ、そういう思考の行き着く先が「犬になりたい」という願望になる。これを彼女は常に持っていた、と。でも別に精神的にイってるわけじゃないから、それがあくまで妄想というのは重々承知している。
で、仮に犬になると言ったって現代の環境で野良はそのまま保健所に直行となりかねないから、もし生まれ変わることが出来るのならばやはり良い飼い主に恵まれ、そのひとに愛され可愛がられ、人間同士では不可能な、犬と人間ならではの深い魂の結びつきを得たい。例えば最近知ったあの女性の飼い犬への接し方は素晴らしく理想的で、もし犬になるならあのひとの家に行きたいなあ。
というのを例えばひとが「もし魔法が使えるなら~したいなあ」というレベルで彼女は考えているだけであって、至ってマトモなんである。で、これらをまとめてヒトコトで表わすと「あの人の犬になりたい。」になるわけだすな。

           * * *

ひるんだ私がどうして本書を手に取ったかといえばWEB本の雑誌の「今月の新刊採点」で絶賛されているのを読んだからだが、いやー、面白かったなあ。
500頁を越える分厚い本だが通勤往復&昼休みだけではなく帰宅してからも風呂につかりながらも読んだ。夢中になれた。結果、二日ともたず読了してしまい、我ながらガッつき過ぎだと思ったけれどそれくらい吸引力があったのだ。

兄妹の近親相姦、息子に執着しすぎる母親、異常な歪みを抱えて外面はかろうじて保っている家族。――こういうのは小説世界では別に今更珍しくもない素材であるが、主人公の数奇な設定、それを支える念入りな前置き、謎の存在であるバーのマスターのキャラなどが素晴らしく、これらを一本スジの通った視点から丁寧に描いてある。しかも変に前衛的に走ったり難解な言い回しで飾り立てることなく平易な、無駄のないすっきりした文章でクールに綴ってある。完璧だ。

タイトルからしてそうなんだが読み始めると主人公の名前は八塚房恵だし架空である地名はすべからく犬絡みだし、駄洒落スレスレの言葉遊びがまずわっと押し寄せる。そうやってこっちの脳内をふにゃふにゃにしておいて次にくるのが嗅覚攻めである。主人公とその相棒の描写ははっきり言ってかなり気持ち悪く、一瞬読書放棄しようかと思った。どろりと生暖かい感触をねっとりと書いてある。これは後で考えれば周到に計算された手順である。続くカクテルの描写くらいになるとこちらも段々わかってきて腰をすえて相手をする構えができている。犬の臭いの濃厚なカクテルってどんなやねん。っていうか犬好きにはそれは嬉しいもんなんだろうか。などと頭の隅で考えつつ読んでいく。この主人公ちょっと変態っぽいなあ、などとも思う。
しかしずんずん読み進めば読み進むほどその主人公の思考のまともさに私は支えられ共感を深めていくことになるのであり、振り返ればそれは価値観の転位、というのか、うーん、なんて言うのか適切な言葉を思いつけないのだけれど要は「まともかそうでないか」なんて所詮は視点の置き所のモンダイに過ぎないというか、表面だけで判断できるような安易なことではない、っていうことかなあ、と。なにかが途中で気付かないうちにくるりと引っくり返されていたことに読後気付く、あ、やられた、みたいな。

笙野さんのお友達だし純文学だし設定が凄いし、とっつき難い、読者を選ぶ作風なのではと危惧していたのだが予想に反してかなりアタリの柔らかい作風であった。ま、この過激な内容を「柔らかい」と言わしめる手腕こそが真の恐ろしさなのかも知れないが、そのへんは追究するだけ野暮ってもんだろう。

装丁はミルキィ・イソベ。