2007/11/24

イラクサ

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)
アリス・マンロー 小竹 由美子
新潮社 (2006/03/29)
売り上げランキング: 52335

■アリス・マンロー
私の心の中に壁がある。
と、いうことに本書を読んでいると否応なしに気付かされた。
いや、「壁」と言ってしまうと少しニュアンスが違ってくるから、より近い言葉を探すなら「網」だろうか。
ぽぅんと飛んでいったボールがそこで軽い衝撃を受けてぽあんと小さく跳ね返ってくる。その網は今まで自覚していなかった、あるいはそんなものはないとたかをくくっていた網である。
自分はそんなところに網を張ってしまっていたのかと思うと同時に、その網は違うスタンスに立っているひとにとっては実は全然無くてもいいものなんだということを知らされて愕然とする。
それは、――それって、どういう……?
新しい視界をいきなり拓かれ私はただおたおたとし、立ち竦む。
70歳を越えたカナダの女性作家が書いた短篇集『イラクサ』は私にとってまさにこの「ボール」のような作品集であった。

        *   *   *

幸か不幸か後に書かれた自伝的小説を先に読んでしまったのでついつい背景にある著者自身の経験を想像したり重ねたりしつつ読んでいったのだが、まったくの創作であれなんであれ、アリス・マンローの書く小説というものには深い、しっかりとした存在感がある。幸福に走り過ぎない。かといって不幸だけに浸りきる悲劇のヒロインもいない。
ふっと梯子を外され、ふっと視点を変えられ、すとんと着地しているのを示される。若輩者はただ息を呑むばかりである。

私が十代だった頃、大人たちがたまに自分の経験を話すのを聞いたとき、語られるエピソードの衝撃度と今目の前にいるそのひとの落ち着きはらった態度をもたらしているに違いない「結果」のギャップに戸惑ったものだ。「まあ、それで、なんのかんのあって、こうなったのよ」と彼らはそんなふうに言う。静かに微笑みつつ。
私はもどかしかった。何故そこでいきなり時空の幅を省略してしまうのだ。その「なんのかんのあって」とは具体的にどういうことなのだ。
焦り、苦しみ、若さゆえのそういう行きどころの無さから、当時私は何度かこう洩らした、「ああ早く歳をと(って悟)りたい」。
――『イラクサ』を読んでいくとたった1行あけたその間に数十年が経っていたりして、その結果がさらりと語られていたりして、私はその向こうにやはり静かに微笑む著者の笑みを見るのだった。
今はもう、「そのあいだを語ってくれ」なんてせがもうとも思わないが。

「恋占い」
原題の感じからすると花占いみたいな言葉なのだろうか。とてもユニークだ。
田舎の駅で、駅員に家具を運んで欲しいと女が頼んでいる、その話から語られだしたものがこういうふうな仕組みの中にあったというのがすごく面白かった。これを最初に読んだので、「マンローの話はどこにどう転がるかわからんぞ」と常に構えながら本書を読むことになった。
ティーンエイジならではの剥き出しの残酷さ、転がっていく物語、そして、その後。
愚かなように描かれた女の顛末をああいうふうに持っていくこと、少女たちがやがて娘へと変化するその切り替わり、鮮やかで、でも「ああそうだそういうもんなんですよ」と激しく頷いてしまう説得力は見事というほか、ない。

「浮橋」
綺麗なタイトルだなとまず思い、最後まで読んでなんて美しい光景を描いてくれるんだろうかと思った。本書の中で一番絵になっていると思う。
命の期限を予感せずにはいられない病気を患っている女性が主人公。それを抱えている彼女は心の中で激しい動揺と戦っている。でも、そばにいる夫も、医者も、誰も、彼女のその嵐には気付かない。思いやりがないというわけではない。でも及ばない領域があるのだ。そして彼女自身もそれをさらけ出したり押し付けたり知ってもらおうとはあえて考えていない。
暑い陽射し、トウモロコシ畑、足元の砂。すべてがくっきりと鮮やかで、主人公の息苦しさが伝わってきて、苦しかった。だから、自転車に乗ってあらわれたまだ少年の面影を残した青年が車を運転して家まで送ろうと申し出てくれたときは心底ほっとした。そして夕闇から静かな夜に移っていくその情景の美しさ、涼やかさにすごくリラックスできた。
その後の流れはごく自然で、だからこそ主人公が口にする切り返しの台詞にはオヨッ。一拍置いて、まあそりゃ真理かもなと思ったけれどこういう場面でこういうことは誰にでも書けるもんじゃないだろう。苦くて甘くて、うーん、凄いねえ。

「家に伝わる家具」
昔尊敬と憧れを抱いていた年上の女性、彼女は周りの空気を変えてしまう存在感があった。でも主人公は歳を重ねるにつれ彼女から意図的に離れる。それは彼女自身が自分の考えというものを持ち、それ以外のものを疎ましく思ったからだった。
このへんの、主人公の女性(たぶん、著者のキャラクターとそんなに遠くない)の自我の描き方なんかがすごくリアルなまでに意固地で、うまい。そしてそんな自分の性質を自分でもあまり評価できないと思っているのに、あえてそれを他人から不意打ちで突きつけられるその何とも持って行き場のない静かな憤りが実に鮮やか。
あなたは賢い、でも、決して自分で思ってるほどは賢くないって」。

「なぐさめ」
夫と妻は決して一緒に闘ってはいなかった。夫の戦いのその只中にいなくて済むことにほっとする、彼女はそういうスタンスだった。
「人と自分と違うのが許せないの? どうしてこんなことがそんなに大事なの?」
「これが大事じゃないんなら、大事なものなんかないさ。」

最後の最後まで、その死さえも夫は妻の介入を待たなかった。
妻は周囲の同情に同調することを良しとせず、夫の遺志を押し通す。この妻の心の空洞は誰にもきっとわからない。
周囲の月並みな「なぐさめ」に乗れるような夫婦であったならもっと簡単に楽になれただろう、でもそれはあくまでもピントがずれているのだ。彼女の苦しみの原因は周囲が思っているそれではないのだ。
諦念と哀しみとさびしさ。
自分がまだ動いているという驚き」を抱えて生きていかねばならない彼女を思うと、なんともいえない気持ちになる。

「イラクサ」
子どもの頃淡い想いを抱いていた相手に歳を重ね、離婚を経た後に偶然まためぐり合った主人公。
彼もまた結婚していて、子どもがいて、そして、彼と妻のあいだにはある大きな出来事があった。彼ら夫婦はその想像を絶する悲劇がゆえに一生離れられない結び付きを得ていた。
――という話なのだけれど、この夫の方にある種の働きかけを行いたい主人公が胸のうちで思うことが……まあ……なんとも凄くて。おいおい、そういうこと言うか、書くか、という感じで驚愕してしまったのだった、「わたしたちになんの関係があるっていうの?」なんてそこで考えている女が恐ろしすぎる、でもものすごく理知的に突き詰めればそうなんだろうなとも判らないでもなくて。うーむ。マンローさんって。
怖い。

「ポスト・アンド・ビーム」
育ちの違う夫婦がいる。夫は大学教授で、ちょっと精神的に不安定になっている青年に気を配っていて、彼に家にちょくちょく来るように薦める。青年はどこか打ち解けないものを抱えつつ妻にほのかな想いを寄せているらしいそぶりをみせ、それは夫婦とも感じ取っている。
そういう状況の中にある日、妻の身内がしばらく滞在しにやってくる。貧しかった時代をそのまま今も背負っているような、育ち丸出しのその身内の言動を疎ましく、どこか蔑んだ目で見る妻。
だが夫妻が用でしばらく家を空けて戻ってみると……。
心の中の「取引」の描写、ああこれを書くのか、と衝撃を受けた。また、終盤、主人公が「事実」を悟っていくシーンの残酷さ。その恐ろしさ。でもそれすらも「まだまだ青かったね」でさらりと落としちゃうんだからなあ。

「記憶に残っていること」
夫婦仲が冷え切っているとかいがみあっているとかそういうわけではない、でも新婚の情熱は既に遠く、妻は「夫が出かけると気分が軽くなる」、そんな時期に起こったひとつの出来事。
それがすべてを壊すわけではなく、激しく燃え続けるわけでもなく、でも妻の心のあり方に少なからず影響を与えたであろう出来事。
ひとの心の奥底に何があるかってほんと、わからないもんだね。

「クィーニー」
自分と全然生き方の違う異母姉。彼女は十八のときに駆け落ちして、そしてその夫の元で甘んじているかに見えたが、またもあっさりとそれを捨ててひらりと違う人生を歩みだしている。
そんな彼女をどこかでずっと追ってしまう主人公の話。

「クマが山を越えてきた」
歳を重ね、物忘れが激しくなり、やがて施設に入らざるを得なくなった妻は、夫である主人公が尋ねて言っても彼を彼として認識していないようであった。そして同施設内のほかの男性と仲睦まじくしていたりする。
そんな妻にやきもきしつつそれでも愛し続ける貞淑な(?)夫の話かと思いきや、彼の過去の遍歴が綴られるのを読むと開いた口が塞がらなくなるのだが、でもやはりそこには長年連れ添った夫婦ならではの結びつきがあるという……。
白は白、黒は黒というわけにはいかないのが人生。妻はどこまでわかっているんだろうかと思わず想像してしまう。
ラストのなんともいえない深い深い情愛、これは若輩者には到底醸し出せない空気なんではないだろうか。