2007/10/14

対岸の彼女

対岸の彼女 (文春文庫 か 32-5)
角田 光代
文藝春秋 (2007/10)
売り上げランキング: 494

■角田光代
単行本が出たときも話題になって、直木賞を本書で受賞されたりしちゃったんで、「主婦と独身働く女性」の二人を描いた小説である、ということはいくら情報を入れまいと目を瞑り耳を塞いでいたって入ってきてしまった。こんなブログを開いていてなんなんだが、私はできるだけ読む前にその本についての情報は知りたくないタイプだ。予想というか思い込みというかそういう「予断」をしてしまうからだ。

だいたい「主婦」と「独身女性」の対比ほど現代において使い古されたテーマというものはない。耳タコというかワンパターンというか、それは書き手の立場にもよるのだけれども引き出される結論というのはもう手垢にまみれた俗っぽいシロモノがあり、したり顔にそれを引用するテレビのコメンテーターなどを見ているとコイツ自分の頭でなんにも考えちゃいないなと白けてしまう。
真面目に取り合ったところで現実的にひとりひとりの生き方にシンクロする面などごくごく一部にしか過ぎないのだ。ラベリングしてそんなに安心したいか。人間ってラベリングできるようなそんな単純なもんなのか。

そういう憤懣がこのテーマに対してはあったから、角田さんがどう書こうがあんまり好きなテーマじゃないんだよなあ……というネガティブな思いが正直あって読みはじめたのだが、読み始めてすぐ、ハマってしまった。面白い。

まずこれは「主婦」と「働く女」を対にして書いた小説ではない。
現在30代半ばになっている女が出てくる。ひとりは主婦であり、ひとりは結婚していない。
だから「ラベリング」しようとしたならば私が耳に挟んでしまったようなアラスジになるだろう。
だが、角田さんの描こうとしたのは何かというのを私なりに考えていたのだが、つまりはそういう「括り」を取っ払った、「女」なんだと思う。「女」が生きていく、ということそのもの。

社会的ラベリングが女が生きていく上でどのくらい重い足枷になっているのか。それがどんな無意味なことか、結婚していようがしていまいが、子どもがいようがいまいが、働いていようがいまいが、それはその女性「個人」の生きかたあるいは環境の問題に過ぎないじゃないかと。そのこと自体が何か意味をもって個性を侵食するというのはおかしいじゃないかと。ラベリングされた像なんて所詮はひとつの「型」に過ぎず、それと「個々」は違って当たり前である。

だのに、違う、のに、「こうでなければならない」「その立場であるならばこうあるべきだ」という社会的なくくりというものはどうしたって存在する。周囲だけにではなく、その女性もそういう社会の中で生まれ育ってきたものだからその自分の考え方の中で「こうあるべき」と「こうしたい」が対立したときガンジガラメになって苦しんでしまう。悩んで悩んで動けなくなってしまう。

この話を読んでいて思い出したことがある。
数年前からマスコミなどで「公園デビュー」という言葉が使われ出し、「公園デビュー」に失敗するとコミュニティーの中で友達ができなくなり、大変……というようなことをテレビで取り上げているのを何度か目にした。
私は主婦ではないので、「ははあ、そういうものか」と単純に思い、なんと気が重いことだ、と思っていた。
だが、あるときある幼稚園の元先生で現在は主婦で一児の母親である女性にそのことをふと話し、「公園デビューってあるんでしょ、大変ですよねえ」と聞いたところ、こちらが予想もしなかった答えが返ってきたのだ。
「”公園デビュー”なんて、無いわよ。マスコミが勝手に言ってるだけよ」。

私はびっくりした。かなり、びっくりした。
「公園デビュー」が無い、ということよりも、そう言い切るそのひとの安定した顔と、そして何の疑いもなく「公園デビュー」を信じていた自分自身に、驚いたのだ。

          * * *

『対岸の彼女』で描かれる女の暮らしというのは全然一般的ではない。それは小説だからまあ当たり前で、例えば小夜子の結婚生活は独身者の私から見ると結婚の夢も希望も打ちくだかれるものだし、働く女である葵の労働状況は自転車操業を思わせる苦しい不安定なものである。
だけど実際自分の周囲にいる主婦はもっと幸せみたいだし、働く女の立場だってこんな追い詰められているひとはそうはいない。
だいたい、過去にあんな大きな事件を背負っているという時点で、平凡な生き方とは絶対にいえない。

――なのに、すごく「小説的」な立場であるのに、自分とリンクする面なんて状況的にはほとんどないのに、――それでもなお、こんなにも心を強く揺さぶられるのはどうしてなのだろうか。
どうして私は通勤電車の中でこれを読みながら、ともすれば号泣しそうになるのを必死にこらえ、舌先を噛み締めて目をしばたたき、涙を飲み込んで、それでも読むことをやめられなかったのか。

 「なんのために私たちは歳を重ねるんだろう。

終盤、小夜子はこの問いを繰り返す。
 「人と関わり合うことが煩わしくなったとき、都合よく生活に逃げ込むためだろうか。銀行に用事がある、子どもを迎えにいかなきゃならない、食事の支度をしなくちゃいけない、そう口にして、家のドアをぱたんと閉めるためだろうか。
日々の雑事をこなしながら、笑顔を作りながら、ふと彼女は問いかけるのだ。
 「私たちはなんのために歳を重ねるんだろう。




「帰りたくない」と何度も何度も何度も言った少女、それに「帰るのやめよう」と答えた少女。
このシーンがずっと心にあったから――ああ私だったらばそこでそのように言うことは到底できないんじゃないだろうかと思ったから――、終盤、同じような状況で小夜子が取った言動がずっしりと響いた。このことこそ「ラベリング」なんじゃないのか。これが大人になったということなんじゃないのか。間違いじゃないと思う一方でどこか「帰らない小夜子」が本当は良いんじゃないだろうかと迷う気持ちがある。

私たちは何のために年齢を重ねていくのか。

小夜子が出した結論は、それが私たち全員に当てはまるものではないとは思うけれど、でも、私たちはただ無為に、無駄に重ねているものは何一つないんだと思う。辛いこと、苦しいこと、それを重ねてそれでもそこにすっくと立っていること、それは決して意味の無いことではない。

角田さんの小説を読むと思考がずっぷりハマってしまって、現実世界に戻ってくるのに大変なのだけれども、今回もそうだった。
はあ。