2007/10/12

十一月の扉

十一月の扉 (新潮文庫)
高楼 方子
新潮社 (2006/10)
売り上げランキング: 137410

■高楼方子
このお話の主人公は中学2年の莢子という少女で、双眼鏡でふっと見つけた洋館に興味をひかれて自転車で見に行き、それでまあなんのかんのの諸事情がとんとんと運んでなんと2ヶ月間その「十一月荘」で暮らすことにまでなってしまう。
なんという不思議な強引な力学の働いた「物語」であろうか、とびっくりしてしまったのだが、そもそも私が本書を買い求めた書店というのはつい先日読みたい本が選べないとぐるぐるし、挙句の果てに2度目とも気付かず某書を購入して撃沈してしまったトコロと同じであって、どうしてこのあいだはこの本が目に留まらなかったのだろうか、そしてどうして今日は「十一月の扉」を開けることが出来たのだろうか、などと少し考えたりしてしまった。
一番単純な予想される状況はこの本がその数日の間に入荷したということだが奥付を開いて確認したところ本書の出版は去年の秋である。だから先日は無かったとしたら書店員さんがわざわざ「十一月」に向けて発注し、新刊でも話題書でもないから棚差しにし、それを私がまたたまたまタイトルに惹かれて手に取った、ということになる。つまりこれにしたって少しは「物語」な偶然の力学が働いていると言えなくもない。ちょっとだけ「シンクロ」しているよなあ、と個人的に嬉しかったり、して。

実は本書と一緒に、この日文庫化した角田光代の『対岸の彼女』も購入したのだが(というかそれが目的で書店に来た)、今日は現実的な話よりもちょっと浮世ばなれしたのを読みたいなあというわけでこちらを先に読むことにしたわけである。
だが、実際読んでみると、そこここに現代の大人の女が抱える問題というか壁みたいなものについてのエピソードが描かれていて、あらまあ、という感じだった。
もちろん視点が中学生の女の子であるから、彼女の理解を超えるようなことは直接的には描かれていない。けれども、読み手である私は中学生よりはその「大人の女」のほうによほど立ち位置が近いから、どうしたって彼女たちの内心であるとか過去であるとかを忖度してしまう。そして、ああ、とか、ううむ、とか唸りつつ読んでしまう。中学生が主人公であろうと「女」というものを生きる、ということについて触れるならばやはりどうしたってこういうことはごく自然に描かれざるを得ないんだなあというか。
それは、女が「個人」として生きようとするとき――これは「独身で」という意味では決して無くて、結婚してようが何をしていようが何もしていなかろうが、とにかく「自分」というものを押し通して生きようとすることだ――社会からはどういうふうな抵抗や反応をされるか、ということである。

例えば莢子は母親と距離を置いて暮らすことによって初めて母親を母親としてではなく「ひとりの女性」としてとらえ、考えたり批判したりすることを始める。そして、始めは批判的にしか見られなかったことが自分のとらえ方次第で違う見方もできることに気が付いたりするわけだが、それはそもそも「母親」というもので括られる社会的な「縛り」に莢子もまたとらえられていたというかそこで安穏としていたからあえて視線を変えることもなかったわけで、実は「母親」などという言葉で括られる人間像なんていうものは決して一定でないはずなのである。

このことだけでもわかるけれどもこの莢子という少女は中学2年生にしては随分物事をきちんと見ることができるというか、私がもし彼女と同世代でこの話を読んでいたらどう思っただろうか、たぶんこうまで「オトナ」にはなれないなあと舌を巻いたんではないだろうか、などと思ったり。

本書は著者の作品の中でも糖度が高めであるらしい。
確かに上に書いたような内容を含んでいるにも関わらず、物語に流れる空気は穏やかであたたかくて、心にしんみりと響く美しい水彩画のような作品だ。

表紙の藤本将さんのイラストがまた素晴らしい。

中学生のときに読めていたらまた全然違う感想を持てたような気がする。そのころから繰り返し読んでいたらいまここにいる私ではなかったのだろうか。
そんなことを考えたりもした。